3年ぶりに日本で過ごす時間と通して気づいたのは、
自分の中にさまざまな「社会的な声」が流れていたということだ。

社会の中で無言のうちに(もしくは声高に)善しとされているもの。
こういう人生が幸せだとされているもの。

それらを含んださらに広く無言のうちに人が信じているものを集合的無意識と呼ぶ。

集合的無意識というと一つの国くらい大きな範囲で流れているものを指すように思うが、
実際には二人ないしは三人以上の人のあいだに流れているものも「集合的」と言ってもいいのではないだろうか。

中でも強烈なのが「家族の中に流れる声」だ。
家族は、幼い頃のわたしたちにとって社会であり世界だ。
そこで生き延びるために、そこで幸せな人生を送っていると認められるために、
わたしたちは気付けば「家族の中に流れる声」に従っている。


いつの頃からか母が言っていたことがある。

「パートナーとの関係が何よりも大切。あなたも自分のパートナーと生きていくのよ」

もしかするとそれは、25歳くらい、結婚を決めた頃に耳にしていたのかもしれない。

もしかするとそれは、「いつか親と同居した方がいいんだろうか」と柄にもないことを
考え始めた娘に「好きに生きて」というメッセージだったのかもしれない。

「夫婦」というお互いの役割に線引きをするような関係性よりも
対等に思える「パートナー」という言葉のイメージが
自分が大切な人と築きたい関係性に合っていたということもあるだろう。

いずれにしろ、わたしはその言葉をとても素直に、額面通りに受け取っていた。

その後、3年間の結婚生活と2年間の別居(わたしが転職し、勤め先が東京になった)を経て離婚を決めたとき、反対こそしなかったものの父も母もとても悲しそうだった。

母についてはその後数年間「理解できない」とことあるごとに言われた。

結婚相手は本当に良い人だったし、離婚に至る経緯も詳しく話していなかったので
そこに物語を見出すことが理解できず困惑したのは当然のことだっただろう。


それからいろいろな出会いがあり、別れがあり、
オランダで出会ったオランダ人と生活や旅をともにすることになった。

愛情にあふれ、わたしの思考や行動、生活様式を尊重してくれ、
ときには考えが食い違い言い合いになることもある。

それでも次の滞在先を一緒に決め、そこでの生活を一緒に楽しむ。

まさに「パートナー」と呼ぶにはピッタリの関係だ。

そんな相手とはこれからもきっと一緒に多くの時間を過ごしていくことになるだろう。


だけど、たとえそうならないとしてもそれはそれでいいと思うようになった。

心のどこかで「パートナーがいない自分はどこか不完全」だと思っていた自分に気づいたと言ってもいいだろう。


「パートナーとの関係が何よりも大切。あなたも自分のパートナーと生きていくのよ」


それは、「自分の人生を生きて」もしくは「幸せに生きて」という願いの込められたメッセージだったはずなのだけれど、

「パートナーと生きる」ことがどこかで大前提のようになり、そうではない自分もしくはパートナーと上手くいかない自分は何かが足りないと無意識に刷り込むような力を持ってしまっていたのだ。


「パートナーとの関係が何よりも大切。あなたも自分のパートナーと生きていくのよ」

それは、見知らぬ土地で子育てや仕事に奔走していた母と父が
心のどこかで大切にしたいと願っていたことだったのかもしれない。

誰かに向けた言葉というのは、結局のところ自分に言い聞かせている言葉なのだ。



日本に来て、パートナーと一緒にいると「結婚しているんですか?」と聞かれることも多い。

何の脈略もなく。
悪意も他意もなく。
あたかもそれが当たり前のことかのように。


「はい」と答えても「いいえ」と答えても、その後の会話は大きく変わることはないだろう。

もしかしたら「はい」と答えたら聞いた相手はちょっと安心するのだろうか。


そう聞かれて嫌な気がするわけではないけれど、「結婚」がいかに社会と人の意識に埋め込まれた制度かということを実感し、これまで以上にどうでも良くなった。

これまで滞在してきたいろいろな国で(言葉があまり通じないということも大きかったけれど)、わたしたちも周りも、一緒にいるだけで十分で、わたしたちの関係性を説明する言葉はいらなかった。

もちろん結婚した方が便利なこともあるけれど、お互いに相手を想い、その気持ちを体現すること以上に大切なことなどあるだろうか。


パートナーと生きることはすてきなことだけれど、
わたしの人生にとって一番大切なことかというとそうではない。

まずは自分自身とともに生きること。

その上で誰かとともに生きることもあったら、それはそれでいい。



基本的に人は、言葉や行為を通じて愛を表現しようとしているのだと思う。

だけれどもそれが、意図せずとき呪いのようになることもある。

愛する人の幸せを願って発せられたものほど、強い力を持つものはない。

ときに愛が呪いとなって、
「今の自分は何かが欠けている」とか「これが手に入ればわたしの人生は完璧になる」
と思わせる。


だけど、本当は、

幸せに条件づけはいらない。


何があってもなくても、
誰といてもいなくても、
今ここにあるいのちを生きる。

それで十分なのだ。


わたしたちはすでに祝福されている存在なのだと気づく。

そのために長い旅をしてきた。


わたしたちはすでに祝福されている存在なのだと気づいた今、
人生はこれまで以上に軽やかになり、世界はますます美しさを放っている。